2011年03月16日

見た目ではわからない障害

避難所には、「見た目ではわからない障害者」がいる。
特に、発達障害は長時間並べない、慣れない場所での極度の緊張など、一見単にしつけが悪いように勘違いされてしまう場合がある。
周囲の寛大な気持ちが必要になる。
もちろん、ただでさえご自分が傷んでいる被災者の方たちにはご負担かもしれないけれど、ご理解いただければいいなあと願ってやまない。
水、食料の配給に並べなければ死活問題なのだ。
誰かが、困っている障害者の親に声をかけられないか。
親の感情をダイレクトに受け取る子も少なくない。不安な大人たちの波長みたいなものに感化されて、変なスイッチが入ってしまうこともある。
どうか、許してあげてほしいと思う。
どの避難所も、穏やかな助け合いがなされていると聞く。
世界が驚嘆するほど高潔だという。
困っていることを隠さずに頼れる、優しい空気が満ちていたらいいなと思う。

私の知人は、今まさに、避難所にいる。
慣れない状況にあって要求する力すら失い、親族友人の安否に一喜一憂しながら、障害をもつ子どもを守っていると、多分に神経も張り詰めてくるだろう。
彼女に今すぐ声をかけたい。
並べない子どもの世話をしなければならない彼女のかわりに、ちょっとだけ、列に入って順番待ちをしたい。
けれども、私は無力な自分を受け止めるしか方法がない。

幸い彼女自身は遭遇していないようだが、中には「出ていってほしい」と言われた経験をもつ障害者の親もいるらしい。自らも被災しながら団体行動を律さなければならないのだから、そのリーダーの方の立場もよくよくわかる。わかるだけに、おそらくその保護者だって何も言い返せないに違いない。そして、ただでさえ悲しい状況に悲しみが覆いかぶさっていくのだ。
こちらのことは理解されないのに、相手を理解してしまうことほど、絶望的な気分はないと思う。
どうしたらいいのだろう。
すぐには答えがでてこなくてもどかしいのだが、私は人の英知と優しさを信じる。
心のケアや療育をするプロの技術を信じる。一刻も早く、互いに理解しあう心の余裕を取り戻せるように、プロの手が借りられるように。
そんな支援が行われるように、無力に耐えながら、義援金を送ることにする。
へんてこな情報に怯えることなく、今最前線でがんばっている人たちを信じて、東京からできることをしていこうと思う。

逃げない。
怖がらない。
分かち合う。
心は、いつもそばにいる。


2011年03月16日 16:58