2011年03月14日

帰宅難民録

初めて体験した帰宅難民だったので、記録しておく。

被災したとき、私は仕事場にいた。集中していたために、実はスタッフが飛び込んでくるまで地震と気づかないでいた。
土地勘のない場所で、自分より守るべき子どもたちがそばにいた。テーブルの下で私が手を握りながらコソコソ話をしていた幼児は驚いてはいても泣き出さなかった。大人が笑顔で怖がらなければ、案外子どもは大丈夫なんだよな。
そういう意味でも、不安を煽るニュースばかりでなく、NHK教育はいつもの子供番組を流し続けたらいいと本気で思うし、大人は子どもの前で「よっしゃ。日本人の底力を見せてやる時がきたぜ」的に、明るい明日をみつめているのがいいように思う。
少しぐらい無理をしても、子どもの前で虚勢をはってこその大人だ。

イベントは中止になり、後片付けの後、荷物をまとめて和服のまま帰路に着いた。
バス停に走ってみたが、無理やり乗れば乗れたかもしれないバスは「停止命令が出ているのでどこで止まるかわからない。この後バスが来るかどうかもわからない」と言う。いつもは人待ち顔のタクシーが、今日はびゅんびゅん目の前を通り過ぎる。
津波の危険をバイリンガルで訴える港区。私はこの地に土地勘がない。
これは一度冷静になろう。和服に草履に大荷物。これでは避難できそうにない。
オフィスに戻って草履を脱ぎ、まずはシューズを借りた。
ハイヒールは折るべし、草履は脱ぐべし。ウォーキングの基本を思い出す。
次回に活かしたい教訓は、ここで遠慮せず、ジャージも借りて、はくべきだったこと。足は温めておくに限る。ふくらはぎにサポーターを巻くなり、脚絆(きゃはん)でしめると長距離いくのに楽だと知っていたのに、活かせない知識に意味はない。
っていうか、次回被災するときには、和服じゃないといいな。
十人分の書道道具は案外重いのでオフィスに置かせてもらい、最小の身支度にして、最寄りの大きな駅、田町までの地図をもらう。
ここで私は都内の地図ももらうべきだった。携帯にはGPSもついているし・・・とぬかったのが間違いで、災害時、携帯は全く役に立たないことを、刻みこんでおこう。
メールも入らない。電話はできない。電池切れが怖いのでワンセグは初手の情報をみただけ。
役に立ったのは、小僧がサッカーをしているときの待ち受け画面だった。これは大きい力になった。でもまあ要は、励ましの道具ってことで、やはりガラパゴス携帯は駄目だ。

「旅支度」を整えて、まずは最寄りの大きな駅まで10分歩く。実は、リアルRPGとか考えていたんだ、この時にはまだ。
情報収集してから、レンタカーを借りて帰ればよいと思っていた。
駅前で、水とカロリーメイトと手袋とマフラーとナップサックを買う。
一泊できる道具と、カイロやガムや、小さな文房具は常に持っている。それらをナップサックに入れて両手をあける。
ウールなので、着物が薄手。とにかく寒い。同時に、いざという時には新聞雑誌をマフラーで頭にくくりつければ、簡易ヘルメットになると読んだ記憶があった。手袋は防寒と防護に必需品だ。
駅では車が借りられず、渋滞はいよいよ尋常ではなくなってくる。タクシー乗り場は長蛇の列、JRの復旧見通しは立たないことがリアルRPGの情報収集でわかった。
覚悟を決めて歩くしかないのか・・・。
ロトの鎧はないけれど、今こそ勇者よ、がんばれ!と思う。
まずはいけるところまで行くべく、バスの長蛇の列に並ぶ。こういう時には始発のバス停に行くに限ると思う。途中からだと満席で乗れないことがあるからだ。
3台待ってバスに乗った。渋谷を目指すつもりだった。
ところが、ギョランサカシタから新宿行きのバスが出ているという情報があって、聞いたこともないバス停で私は急遽下車してしまった。魔が差したとしか思えない。何度でも書く、こういうときには大きな始発の停留所待てせ歩くのが鉄則だ。
交通が混乱しているときは、むやみに動かず、とりあえず大きな駅を目指すべきなのに。
ギョランサカシタってどこよ!?と、わからないまま、寒さに震えながら、40分バスを待った。
そして、バスが「満員で〜す」と目の前をスルーしていったとき、目の前に「絶望」という文字が浮かんだ。大げさではなくね。
運命は他人任せにしない。特に緊急事態には。
この二本の足でここから帰らなければ!と決心する。
カイロはあったけれど、この寒さでは体力が長くはもたない。
最初から自分を信じるべきだった。
オフィスを出てからすでに2時間以上が経過していた。あとで知るのだがギョランサカシタは、オフィスのすぐそばなのだった。
その間、腹ごしらえをしても良かった。
近所の友達を訪ねてみても良かった。
いろいろな選択肢も、軽くパニックだと思い浮かばなくなるのだ。ウェルカムトラブル体質の私ですら、ベストの道が見えなくなる。

道がわからない。
とにかく道がわからない。
必需品の最たるものは、地図だ!駅前で、本屋に行って地図を買うべきだったとバス停で思い知る。
ふと、バス停の看板をのぞいたサラリーマン三人組に勇気を持って声をかけ、もしも新宿方面に行くならついて行ってもいいですかと聞く。あとは、三人にひたすら遅れをとらないよう、ウォーキングの要領でサクサクと歩いた。
そうだ、ガムを噛んでいこう。サッカー選手が長距離を走りぬくのに有効だと言っていた記事を読んだことがある。
歩き始めてすぐにオフィスの横を通り、「えええええーっっっっ、そんなばかな!」と思う。この二時間半はなんだったのか。けれど、すぐ近くに東京タワー、麻布十番、六本木、ミッドタウン、飯倉と、豪華な名所を巡るのはオノボリサンにはちょっとだけ楽しい気分でもあった。
愉快な三人組も、話すことがポジティブですごくいい。名前も仕事もきかず、ただついていくだけだけれど、三人の会話が楽しい。私はホント、直感的に人を見る目だけはあるんだよなあ。
歩き疲れた頃、渋谷2キロの表示に「えええええーっっっっ、あのままバスに乗っていたらこんな思いはしなくて渋谷に行けてたのにギョランサカシタめ!」と恨みもしたが、外苑東通りを通る頃、相方のツイッターを見て祐天寺の友人が自宅に招いてくれたことをきっかけに、そうだ、いざとなったら友達のところで休めばいいんだと気づく。
視野狭窄になっていて、そんなことすら気づかなかったのね。
その時点ではまだ安否がわからない娘のために、東京ディズニーシーまで車で迎えに行くつもりでいたが、やっと相方からのメールを受けて娘は温かい場所にいるとわかって安心もした。
新宿まで行けばかつての仕事仲間たちが点在している。
甲州街道沿いにはそりゃもうあちこちに友人がいるじゃないか、と思ったら、足取りが急に楽になる。快く誘ってくださった方をはじめ、ただもう存在してくれるだけで友人はありがたい。

新宿は人々がぞろぞろ歩いていた。
たくさんの頭だけが波のように動き、その中に飲み込まれるように、続いていく自分。
甲州と外苑通りが交わる交差点では車は道に溢れ、警官の怒鳴り声は日本語と思えないほどだったが、眩しいほどに光を放つ馴染みの街は、ちょっと信じられないほどの安心感を与えてくれた。
あとで調べると実はここで全行程の1/3なのだが、精神的には半分まできた気がしていたし、実際その後の甲州街道の方が、知らない道よりずっと感覚的に楽だった。
多少遠回りだったけれど、知らない道を緊張しながら歩くより、ルート取りは悪くなかったのかもと思う。
だからギョランサカシタから新宿に出られればベストだと判断したのは普段なら悪くなかったが・・・それでも田町から渋谷行きのバスに乗っていて、降りたのはバカである。バカバカ、私のバカ!なのである。
ひたすら歩く。
甲州街道では、無料でカイロを配っていた。体は少し汗ばんでいても、風は冷たく、顔だけが冷え切っていたので、さらなるカイロは助かった。トイレを使ってくれと自宅を解放する人、休憩所として椅子と飲み物を提供する店などがいっぱいあった。
自転車屋があいていて、自転車を買っている人もいた。私が現金をもっとたくさん持っていて、何より和服でなければ、きっと自転車を買っていただろう。
だが、実のところ車道の進みは遅々としており、徒歩のほうがずっと早いという現実もあり。
ぼんやりと人々の暖かさが心にしみる三日月の夜。
同行してくれた三人組がそれぞれ別れていき、甲州街道で最後の一人とも別れてからは、時々メールも入ってくるようになり、相方の言葉に励まされ、小僧の待ち受け画面に励まされ、娘の無事を何度も思い起こし、何していろかなあと想像して歩いた。
環七。明大前。私は歩ける。ピッチが少し早くなる。

あと一時間以内に、家につくだろう。
ゴールが見えた頃、靴紐を結び直したいと思った。車庫を開放して、熱いお茶を提供してくれている内藤畳店に入り、初めて腰掛けた。
水は飲んでいたが、熱いお茶がありがたい。塩せんべいが死ぬほどうまい。背骨が他人のモノのように思えたが、とりあえず、また歩き出せると思った。
「がんばってくださいね、気をつけて帰ってね」という、おばちゃんの声に泣きそうになる。

が、今度は足がどうにも前に出ない。突然ペースダウンして、♪あとから来たのに追い越され〜
まさしく、人生楽ありゃ苦もあるさ。泣くのが嫌なら、さあ歩くのだ。
仕方ない。とにかく前へ。一歩一歩前へ。間寛平ちゃんに捧げた、キヨシローさんの歌を思い出して、進む。

相方が家の前の道で待っていてくれた。
体を温めるために日本酒を一口飲んでも、風呂に入っても、しばらくは震え続けるほど、体は冷え切っていて、風呂上りにビールを一口飲んだが、もうそれ以上はほしいと思わなかった。
明るく温かい部屋で、相方の握ってくれたおにぎりを食べながら初めてテレビで惨状を目にして・・・言葉を失った。
そんな帰宅難民の一日だった。

2011年03月14日 15:33