2010年05月11日

書けない

書けない!!と、頭を抱えている。

レポートは毎回、ワードで書き上げた後に、所定の枚数のために、半分に削る。
そして、書き文字で清書する。
手を動かさないと覚えられないからだ。レポートを出した後にはテストが待っている。

落第しない程度で。
というラインでいいんじゃないかとも思うんだが、返ってきたレポートの成績と所見を読むと俄然やる気がみなぎってしまい、別に誰も期待なんかしていないと知っているのに、がんばってしまう。
いや、それだけじゃない。
記事を書くときには最低三冊、資料を読んできた癖が抜けない。
もう一冊、参考文献を読みたい。ああこれも知りたい、あれも知りたい。
この溢れる探究心は何だろう。……多分、ちょっと依存症なんだな。褒められたことじゃない。

もっと若い頃に学んでおけば、と、しばしば思うけれど、それは実は記憶の分野だけで、読んだり書いたりしていて楽しいのは、比較にならないほど、今の方だ。
若い頃は食うために人と会い、食うために本を読み、食うために文章を書きまくって、今よりずっと勉強していたから、正規の大学生である今の方がうんと楽だ。
それを考えれば、韓国語が頭に入らないのも道理で、英語は仕事で使うから、寝言でうなされるほど必死だった。書いた記事は一度でもまずければ次からは使われないところで勝負していたのだから、精魂こめて書くのは当然だった。作文は私のプライドだ。Bプラスで満足する気持ちは、私には未知の世界だ。
けれど、寝る時間を削って無理して、疲れをいっぱい溜め込んで、何をやってんだろう、私は…とも、思うのだ。

風邪にやられたらしく、昨日今日、気がつくとうとうとしてしまう。
小僧の「母の日ゴール」も、「母に捧げる優勝」も、本当はもっと嬉しいはずなのに、感情がうまくコントロールできないほどに疲れてしまっているみたいで、なんだか子どもたちに申し訳ない。
今の私のプロフェッショナルは「おかあさん」だというのに。
大学は資格をとりに行ってるのだけれど、位置づけとしては趣味の一貫で仕事じゃないんだから、自分をうまく許しながらやっていかなくちゃ。
書けないなら、書けないなりに書く。
それは新しい自分作りのためのトレーニングのひとつだ。そうやって、新しい見地、老境に向かうための「許し」のトレーニングをはじめていかないとね。

2010年05月11日 21:59