2008年06月09日

気まぐれ倶楽部の芝居

休日だというのにうちの中がゴミの山で。
この際、ぜーんぶ捨てたる。と決意して、ゴミ袋を買いに行く。
久しぶりのスーパーマーケットは、目移りするほどいろいろな商品が魅力的で、帰宅したらゴミ袋を買い忘れていて……もう一度出かける。

そんな、サザエさんのような愉快な生活をしています。
でも、心の中は泣き出しそうよ。

週末、ちょっと素敵なお芝居を見た。
「グルーミング〜猫がつなぐ3つぐらいのストーリー〜」といって、下町谷中の根津教会で上演したものだ。気まぐれ倶楽部にお友達の安田美香さんが出演するというので、チケットをお願いした。
ところが、彼女を見に行ったはずだったのに、そこにはサチコって女しかいなくて、ニューヨークで息詰めて、髪ひっ詰めて、とうがたっちゃった翻訳家として、暮らしてた。
古い教会は不思議。天井が高くて、窓のガラスは時代を感じさせて、壁は何度もペンキを塗り重ねているせいか、異国情緒にあふれている。
亡くした双子のお葬式をあげた教会に、よく似ていた。
日本通のロバートっていう俳優の卵との、不器用な恋。日本語と英語の壁に阻まれているだけじゃない、生き方の不器用さが、ちょっと不器用すぎて、笑っちゃう恋。それをただ見守る猫。
次なる舞台は、モスクワ。
イリーナってチャーミングなロシア女が片言の日本語で、ぐいぐいひきつける。これがかわいくもおかしい。ロシア語を操る謎の日本人との明日なき恋を予感させる展開。
で、そこにも猫。かわいくない三毛猫。
サチコとロバートの、おしゃれとは程遠い会話がツボで、ずっと笑っていて、イリーナは私でも惚れるわという女道の王道が描かれており、それを洒脱にやるもんだから、これはもう!
そして、最後のストーリーは東京。ところが、ここが一転、どうにも笑えない。
ダンナを放り出して自分探しの挙句、宇宙飛行士になろうという突拍子もない女性、ゆきちゃん。彼女はずっと何かにいらだっていて、見ていてもイライラするのだ。和みの三毛猫はいるが、役に立っていない。
喧嘩の果てに、彼女が家出をし……そこになぜかやってくるサチコたちと、イリーナたち。
実はここは、東京、根津だったというどんでんがえし返しがある。
最初から、猫の持ってきたテロップだけが、ニューヨークと書かれていただけ。台詞はあえて誤解を誘導する仕掛けになっているが、よくよく思い出してみると整合性がある。観客は演劇という特殊性にまんまとだまされてしまうのだ。
家出して、風呂屋の煙突に登ったゆきちゃんはだんなのビジネスヒントを見つけて帰ってくる。それはゆきちゃんの夢の実現にもなるのだが、ゆきちゃんはずっと怒った口調のままだ。
この二人の間にはかつて子どもがあり、その死はダンナを変えてしまったようなのだ。ゆきちゃんは怒っている、それは子どもに死に対してではなく、変わってしまったダンナに対して。ずっとずっと怒っている。怒ったまま、愛を伝える。気を使って優しくする必要などないのだ、私たちは猫を含めて家族だというメッセージを、怒った短い言葉で伝える。
日本人って、ホント、不器用だから。愛はこんな形でしか、伝えられない。そのあたりに、多分、観客は泣くのだな。

子どもの死が、ダンナをそんなにも変えてしまった、変わったあなたがいやだとゆきちゃんは責めるけれど、パートナーってそんな簡単なものじゃないんじゃないかと、私は思う。過失を感じるなと怒ることで赦す愛はとても素敵な展開だったけれど、そこだけに原因を求めるゆきちゃんは身勝手すぎて共感できないよと、私はゆきちゃんに言いたかった。
相手が変わったのは、あなたのせいでもあると思うよ。
パートナーってそんなものじゃないかと思うんだ。一方的に相手だけが悪いことなんかない。夫婦も家庭も友情も、いい関係は作り上げていくものだ。

それでもそんなことを考えさせられた芝居であり、前半に笑っていた分、感情のゆり戻しでほろりとさせられちゃって、この作品を作った作家、山下まさるさんのファンになってしまった。

芝居が終わって、安田さんにひまわりの花束。彼女を最初に見た時の印象そのままの、明るい花に、実はその日半日私が支えられていた。
十三年前のその日は、双子の誕生日だった。
だから私は毎年、彼らが眠る谷中墓地にお墓参りに行く。命日に行くと泣いちゃうので、毎年、おめでとう!といいに行く。生まれてきて、おめでとう。あんまりおめでたくない人生でごめんね。
なんたって、彼らの名前の快と楽は、中国語でおめでとうという意味なのだ。ちょっとばかり気が早くて、ちょっとばかり小さすぎたために、保育器の中でわずかしか生きられなかったけれども、私にとっては今でも大事な大事な子どもなのだ。
亡くしたということは、ほんの少しの間だけ別々に暮らすことだと私は思っている。また天国で会えるのだと、そう思って見送った。そう思わなければ見送れなかった、あまりにも悲しすぎて。
十三年もたったのかと、思う。早いものだなあ。
さすがにもう、普通に墓前の花束を買って、いかにもお墓参りですという気持ちにはなりたくなかった。安田さんには何か甘いお菓子でも、と思っていたのだったが、急遽変更。軸のしっかりした、今朝届いたばかりというひまわりで、元気一杯のでっかいヤツを作ってもらうことにする。
その花束をもって歩くことで、私が元気になれる気がした。花束とは、そういうものだ。
死んだ人に手向ける分だけでなく、生きた人に想いを伝えるための分を抱えていることが、なんとなくこう、前向きな感じがして、元気になる。
元気一杯な彼女に会いに行くだけでも十分元気になれそうだったから、あえて泣き虫モードに入るそんな日を選んで芝居を見に行くことにしていたのだが、この花束は、さらに効いた。
小僧達のお墓の前で、これからお芝居を見てくるよ、この花束は君達のじゃないんだ〜。なんて話をして、そして出かけていった教会が……そして、そのストーリーが……。
テーマは愛、ときた。
素敵で楽しくて切ない、舞台。
正直、まいった。天国の小僧達からの、ちょっと遅れた母の日サプライズだったのかもしれない。
神様め、やるなあ!と、ちょっと思ったりした。

私もゆきちゃん同様、子どもを亡くしているけれど、相方との絆は、むしろ小僧達のおかげで深くなった。いつか相方と別れる日が来ても、きっとまた会える日までの、ほんの少しのお別れだと思う。
とかいうことを、私は堂々と言っちゃうから、文学や芝居が書けない。
いいの、いいの、人はペンのみに生きるにあらず。あら、ちょっと何かが違っているわ?

なんてなことを考えていたら、電車、乗り越した。
表参道で乗り換えるはずが、そのまま代々木上原まで……。
一刻も早く帰宅して、猫のような、双子と同じ顔をしている福助をぎゅーっと抱きしめたいのに。

2008年06月09日 00:05