2008年03月05日

フィンランドの冒険

本日も、ヘルシンキより愛をこめて。
……うそですけど。

私がヘルシンキに行ったのは、今から18年前の初夏ことです。フィンランド航空の企画書を書く懸賞でご招待されました。
ヘルシンキは当時よくよく好きだったNYに比べるとはるかに田舎で、NY郊外の街よりもぐっとおっとりとした町に見えました。
ヨーロッパの石造りの古い町並みはお行儀がよく、建物は荘厳でどこに入っても天井が高くてやわらかい日差しが快く差し込むように作られているのですが、人々は気取らず自由闊達でした。石畳も、建物も、ロシアの影響を強く受けていると聞きましたが、中央は南青山のようで、洗練された店が立ち並び、どれも見て歩くのに時間を忘れます。
湖畔と森と、ちょっと行くと海まであって、やたらと散歩が楽しい街だった記憶があります。物価は東京並みに高く、ビジネスマンは勤勉でした。まだノキアも台頭していなかったのか、携帯電話はそんなにみた記憶がないのですが、ヨーロッパなのに五時過ぎてもみんな働いている!ってことにびっくりしたのでした。
英語で何か尋ねるとたいていの人はあいまいに笑ってフェードアウトしてしまいます。でも、外国人は珍しいから遠巻きに近づきたい光線を発射しながら、なんだか親切にしてくれるわけです。バス停に引っ張っていってくれて大げさのジャスチャーでバスがくると教えてくれたり……外国人向けのガイドブックを走ってもらってきてくれたり……公衆サウナはないけれど、スチームサウナなら公営プールにいきなさいと正確無比な地図を描いてくれたり……。
石造りの雰囲気とあいまって、完全にドラクエの世界ですよ。勇者でないのが残念なぐらい。
同時に観光協会、外国人観光客をもてなすシステムは完璧で、電話一本で何でもかなうようになっていました。そのあたりも東京のそれに似て、とても居心地のいい街でした。
フィンランド人にはアジアの血が入っているそうで、ノルウェー人やスェーデン人に比べ、そんなに体躯が大きくないのも、髪も目も茶色が主流なのも、意外に世話好きなオバちゃんたちがちゃきちゃき面倒見てくれるあたりも、一人旅にはとても心地よかったのです。

YMCAにしばらく滞在して、ドミトリーの旅人から「サンタクロースに会いにロバニエミに行くといい」と聞きました。ガイドブックがないと、本当にRPG実写版。口コミだけがたよりです。
チケットを買って小さな国内線に乗り込むまではよかったんだけれど……、乗っている人、まばら。その時点で私は気づくべきだったんです、「閑期」という言葉に。空港についてあっという間に人がはけて、場違いなまでに大きなスーツケースを持った私だけが取り残されました。
外に出てみる。
と、店、というか街は全面的にクローズドで、私は悪い夢を見ているような気持ちになりました。あのね、シーズンオフだから、宿屋もやってないの。っていうか、通りに車もない。人、いない。
空港に戻ってみたものの、もう誰もいない。
白夜とはいえ雪が残ろうかという寒い北国です。世界にたった一人取り残され、多分人生初の大ピーンチなのに、若い私はナントカなるような気がしていたんだから楽観的でした。さて、どうしようか。
「どうしたの?ここはもう今日は飛行機、来ないよ。宿屋の予約は?車で送ろうか?」
それが、多分、ちらちらと珍獣を気にして、どうも様子が変な私にそう声をかけてくれた大学生オンリ君でした。
この街の事情をきいてひっくりかえり、それじゃあ今夜泊まる場所はないわけだと文字通り、途方にくれる私。
「……探せば一軒ぐらいは見つかるかもしれないけど、今から探すのもなあ。今日はボク、友達夫婦の家に泊まることになってんだけど……一緒に来る?」
オンリ君、大変親切。それはね、まさしく地獄で仏。ロバニエミにオンリ!でした。
また、彼が、実に人のよさそうな北の人で。髪の毛は寝癖だし、目やについてるし、昨日食べたというにんにくでどぶにはまったような匂いさせてることをしきりに気にしながら、でもすっごいニコニコしてるの。
「日本人なの? 日本人初めて見た! ここにはタイの女の子が出稼ぎにくるぐらいで、アジアの外国人旅行客はすごく珍しいんだよ!」
当時はまだアニメが世界の言葉になるずっと前なので、ガッチャマンが全部歌えても意味はなかったのですが、偶然彼は伊丹監督が大好きで、とりわけ「タンポポ」に心酔していたおかげで、日本人をとても大切に扱ってくれたのでした。アレには私の友達の劇団員がスパゲティーをすするシーンに女優さんとして登場していたので、何度か繰り返し見ていましたから、台詞再現したりしてもう異常な盛り上がり。
ほかに選択肢はないわけだけど、それが私にとって最高の旅行になりました。
その晩は、彼と年上のお友達ご夫妻と痛飲。北の人間は酒が強いです。でもサウナがあるから大丈夫よ〜とマラッカ家の奥さんアーニャさん(同じ年)とも意気投合してしまったものですから、もうとまらなかったなあ。
本物のご家庭用サウナにも入れてもらい、ご家庭料理をごちそうになり、ずーっと片言の英語でしゃべりつづけて、その翌日には別の友達の結婚式にも来いと呼ばれ、その次の日にはサンタクロース村にも連れて行ってもらいました。
さらにこの際だからと、サンタクロース村からさらに田舎に分け入るオンリ君のご実家にまで連れて行ってもらって、じいさんと燻製作ったり、家族そろって本格的フィンランドサウナ(すげぇ熱いのに入って、その後氷の張っている湖に飛び込むスタイル。基本混浴だけど欲情のしようがないほど過酷)入ったり、強いウォッカ飲んで黒田節歌っちゃったり、大変に素敵なホームステイになってしまったのでした。……今思うと、無計画にもほどがあるけどな。

ヘルシンキの中央郵便局に、当時主筆で書いていた雑誌からチェックすべき校正原稿が送られているはずでした。
「帰らないで。もっとここにいたらいいじゃないか」「いたいけど……でも、仕事が」「仕事なんか……」かかかか。思い出しても恥ずかしい自己陶酔したやり取りと、空港でドラマチックに涙まで流しちゃってのハグ。若いっ!きゅーっ!
で、現実に戻った最後の数日間、ヘルシンキではちょっといいホテルに泊まって、街で声をかけられた日本人とお茶を飲んだり、そのお友達のフィンランド人たちと急遽パーティーをしたり、楽しく過ごして、お友達のお土産にコンドームを持って日本に帰ったのでした。
当時、フィンランドではエイズ撲滅のために街中でコンドームを配っており、女の子でも平然とコンドームを買うと聞いて、日本人の女子代表として「ありえない」という話題で盛り上がったのち、とある罰ゲームでとにかく大量に買わされたのでね、それをお土産にしたの。恥ずかしかったわよ!税関で「これ、何ですか?」と引っかからなくて、本当によかったです。それ罰ゲームとして、きつすぎ。

二十代はバブル絶頂で、私は仕事してお金ができると、たいてい一人で、海外に出かけていました。
一人で散歩して歩くか、公園で本を読むか、誰か現地の人と友達になって一緒に飲んでるか、そんなことばっかりしていた気がします。
必ず二週間以上はでかけるので、いつも安宿の貧乏旅行でした。
偶然悪い人に出会わず、たまたま無事だっただけで、どんな犯罪に巻き込まれても文句は言えないようなむちゃくちゃな旅の仕方でしたから、誰にも勧めませんけれど、私がどんな人もきっといい人に違いないとバカみたいに信じているのは、世界中の旅人に優しい人たちからもらった、その心根の美しさのおかげのように思います。渡る世間に鬼はないのです。

しばらく文通していたマラッカご夫妻と、オンリ君。彼は香港から一度電話をくれて、それが留守番電話に入っていたけれど、そのとき私は失恋してロンドンにおり、姉のように慕う女性の元で引きこもっていたために、ちょっと逢いに行ける距離ではありませんでした。
結局再会はできないまま、オンリ君からの手紙は来なくなり、マラッカご夫妻は転居通知をいただいてから連絡が取れなくなりました。
彼らは、「かもめ食堂」見たかしら?「タンポポ」見ていたぐらいだから、きっと。
私の中のフィンランドは、今も素敵な白夜の語らいと、暖かい人の心で、思い出すとうれしくなっちゃう場所です。

二十代の頃の冒険は、今でも私の休日を彩ってくれます。
さて、お茶をいれて、ちょっと小休止。
ヘルシンキより少しばかり夜になるのが早いけど、トウキョウもそう悪くはないと思います。


2008年03月05日 14:33