2006年12月05日

おかたづけ

少しずつ前進しているに違いない。と信じているのだが、相変わらず家はごみ屋敷状態だ。
怖いのは、目がそれに慣れていくことだ。
このままごみ屋敷でもいいんじゃないかと一瞬思ってしまうことだ。
こうやって、身を持ち崩していく瞬間を重ねて、人は落っこちていくんだろうなあ。

部屋が散らかったままだと、子どもたちがもうまったく片づけをしなくなる。
この機に乗じて、むしろ散らかし祭りを繰り広げてしまう。木を隠すなら森の中、ごみを隠すならごみ屋敷である。
脱ぎ散らかし、書き散らかし、切り散らかし、食べ散らかして、そのまんま。
そして案外平気な顔をしているのだから、子どもの適応力というのはすごい。

さすがに私がイライラする。
これからたたむ洗濯物の横にP子が容赦なく自分のパジャマを脱ぎ捨て、ごみを目の前のゴミ箱に入れずに床に普通に落としたとき、理不尽にも切れてしまった。
汚染された海におしっこをたれて何が悪い。そもそもこんなに散らかしてあるお前が悪いだろう。
と、私がP子ならきっと言うなと思いながら、私はきぃぃぃぃぃと奇声を上げながら、娘の机の上のごみと床のごみを一気にゴミ袋に押しこんだ。なまはげ誕生の瞬間である。
君の独立した子ども部屋を作ろうとしているのにその態度はなんだ、こんなごみ女に一人部屋なんて不要なんだっ!と怒っていた。きぃぃぃ。私の仕事部屋はウォークインクローゼットの中だぞ、もっとも、ほとんど仕事してないからいいけどなっ! きぃぃぃぃ。
ああ、この声はどこかで聞いたことがある。
片付けるのが昔から苦手だった私、いやまて、そもそも片付けるという概念がない私を育てたのは、いまやご隠居して部屋中、古物を並べて悦に入っている母・ヨシコ、その人だ。

母・ヨシコは私が子どものころ、子どもの私物はごっちゃりおいてあればなんでも全部、おそらく自らの生理の周期にあわせてきぃぃと叫びつつ、いっせいに捨ててしまう野性な人だった。
当然、私はどんどんモノに執着がなくなり、物欲はあるくせにその始末はできない人になった。たとえるなら、やりたい盛りのお兄ちゃんのやり逃げ食い散らかしに近い。
だからこそ、自分の娘はものを大事にする子に育てたかったのだが、私に片付けることができないのだから、娘が几帳面になどなるわけがない。
なのに親の意識は呪いのごとく効果を発するのが幼児期の怖いところで、切り抜いたごみまで取っておくモノへの執着の強さをもちながら、整理してしまうことはできないというとんでもない二面性を併せもって、少女はP子になった。深情けの情婦のくせに、多情多淫である、みたいなケースである。
喩えがわかりにくいか。

相方と暮らし始めて、サンジラサンボウ(訳・散らかり放題/下田弁)に慣れたとはいえ、何もないホテルの部屋とスーツケースひとつというのがずっと理想の部屋だった私である。この現状は、モノがありすぎて、うるさいのである。
もう安静にしなくても大丈夫だろうと、ちょっと前から少しずつ片付け始めたのだが、賽の河原で石を積んでいるような気持ちになって、片付かないことでまたイライラするのだ。それでも今度の大引越しで、本当に不要なものは全部捨てるのだと意気込んでいるため、外部の手が借りられない。私の片付けというのは場当たり的で、とにかく見えないところに押し込んだら終了だった。場所がぱんぱんになったら容赦なく捨てればいい。
でもね、それじゃあいくらあっても足りないの。
全部捨てて、また買う、そして整理しないで押し込んでしまうから行方不明になり、仕方ないからまた買って、いっぱいになったら全部捨てて…。アホである。

引越しを決意するまでに、何冊も本を 読んだ。
料理に材料の選び方と調味料の使い分けと手順があるように、整理整頓にも、ちゃんとやり方があると私はこの年で初めて知った。今までの私の整理整頓は、童貞の勘違いセックスみたいなものだったのだ。……相変わらず喩えがわかりにくいが、あんなところをこんなふうにしたって、ちっとも意味がなかったのね、と知ったのである。ここにあれを入れたって(もういい)。

ばりばり走り回るほどには回復していないが、それでも少しずつ回復している。この家と連動するかのように。
今日は私が不在のときに、相方のご担当編集者が来たという。
「うわー、そうだったんだ。こんなちらかってて驚いたでしょう」
もうちょっときれいになってから来てほしかったよ……、と相方に言うと、
「いや、別に。いつもとそんなにかわんないじゃん」
と言われて愕然とした。
だってリビングと玄関とトイレはいつも片付いてるよ? 今は家中至る所がダンボールとゴミ袋だらけだし、本なんかも乱雑、服が飛び散っていて、それでいつもとかわらないはないんじゃないの。
そのうち、イライラが昂じて、ぷんすか怒る。イライラするほど散らかっているよねー、ねー。という点で合意してほしいのだ。
「お前、自己認識甘すぎ」
と相方に言われ、きぃぃぃと唸りながら、寝室に行った。すると、すでに目が慣れているいつもの平成新山(洗濯の山)が、今度は多少マシになり始めている。犠牲になる部屋に押し込んで片付けたことにする掃除はもうおしまい、システムからして大改革なのだ。
それで、わかっちゃった!

相方は日々、散らかっている側(寝室、屋根裏、地下室、台所、廊下、風呂場)を 見ていた。だからどこが散らかっていても、「まあ、こんなもんだろう」になる。
一方で私は、日々必死で片付けている側(居間、子ども部屋、玄関、トイレ)を見ていたのだ。だからケの部屋は散らかっていてもいいのだが、ハレの場が整っていないことに、いらだつ。いつもきれいにしている「つもり」を相方に認めてもらえないのも、腹立たしいのだ。
すごい大発見である。二人の視点がまるで違っていた。……何の役にも立たない大発見、というところがまた、奥ゆかしい。

それにしても、物事の都合のいい面しか見ないというのは、私の特徴なんだろうか。こればかりは母・ヨシコの育て方とはまったく関係ない気がする。
楽天家にもほどがあるだろうと多少自嘲しつつ、どんなに引越しをがんばったところで、大好きなホテルライフには程遠そうだし、子どもたちは多分整理上手にはなれないし、家中丸ごと全部片付くなんて夢のまた夢。
しょうがないんじゃないかなあと、ゴミより先に、変な期待を捨ててみた。

2006年12月05日 01:18
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