初めての人と会う。
その日、個別面談をお願いしていた校長先生は、現場経験の長い、実直なタイプの方である。前任校には知的障害学級があり、おそらくは個性的すぎる子ども達についてもよくご存知なはずだ。しかしそれだけに、教育委員会の判定に背こうとしている私たちに対して厳しい見方をするかもしれない。見たとおりの生真面目な方だったら、四角四面に物事を受け止める方だったら、どうしよう。
初めての場所、それも校長室のようなところでは、普通の大人だって緊張する。
時間は夕方。もう、外は真っ暗だ。
公園でボールを蹴りまくって、疲労と空腹で機嫌も悪くなってくる、福助でなくても子どもなら誰しも、一番きつい時間だ。
「これが終わったら、みんなでゴハンを食べに行こう」
とだけ言って、私はそそくさとバッグを抱え、玄関でぐずる福助を追い立てたのだった。相方すら、いつもと違う緊張感。普段はバッグをどれにしようか迷うP子も、大急ぎだったために手ぶらで私たちに続いた。
そして、ばたばたと学校に駆け込んだ。
校長室。
福助は物珍しそうに校長室の回転椅子にちょこんと座る。P子が横に。そして、私と相方が並んで座り、相対して副校長と校長先生が厳かに腰掛けた。
「静かにしていられる?」
と私が福助にささやく。福助はコクンとうなずき、私と相方は校長先生と話し出した。
この時、私は気づいていなかったのだ。バッグの中に肝心なものがひとつも入っていない事に。
福助が喜びそうな暇つぶしグッズ、例えば画用紙とクレヨン、例えば折り紙、本、立体パズル、ミニカー、リーサルウェポンとしてのチョコレート。……いくらでもあったはずなのに。
それがどれほど子どもの「間」をもたすのに重要か、幼児を持っている人ならきっと即座に理解してくれるだろう。大人ですら、手持ちぶさたで人を待つのはつらい。何分、何もない状態でただ黙って座っていられるか、ちょっと想像すればすぐわかる。それが空腹、そして疲労、さらに幼児。
一触即発の状態である。
まして、彼は予測が出来ないことは苦手、慣れるまで時間がかかる、忍耐力がなく、空気が読めない、集中力が高い分、気持が切り替わりにくい弱点を特徴とする病児だからこそ、通級せよと判定されているのだ。
5分ほどして、福助の落ち着きがなくなってきた。何も知らない私は余裕でバッグを開けたが、その瞬間に青ざめる。
何もない。システム手帳と、財布が入っているだけ……。せめていつものメモノートは? ……ないっ!!
どうしよう……。今は、私が福助のゴキゲンをとるわけにはいかないのだ。
福助は障害児と言われているが、療育がうまくいっていて、幼稚園では今のところ、何も問題がない。いくつかの支援があれば、クラスで集団行動が取れるはずだ、診断名ではなく、どうかありのままの福助を見ていただきたい、その上で通級が必要と感じたら再検討するので言って頂きたい、と、私たちはお願いしに来ているのである。
何やってんだ!
当然、観察されるべき福助は、ベストコンディションで臨むべきだったのに、この準備の甘さは何だ。バカだ、私は。そんな相談に来ていながら、私はその彼の作業道具すら忘れたのだ。とんだ過失だとバッグをかき回すが、ないものは、いくら探したってない……。
実際に現場の方の意見を聞くのが、福助にとって活路になるとは思ったが、不機嫌全開の福助ありのままをご覧頂くのは、どうなんだろうか。我慢も、順番もルールもきっちり特訓したつもりだが、空腹の状態では大人の私ですら冷静ではいられない。最悪の状態をお見せすることになったとしたら……それはそれで仕方ない。
私は目を閉じて深呼吸をした。
システム手帳、手帳部分を切るのはどうだ。ペンを渡し、一枚だけ手帳を破って福助に無言で渡した。福助、ペンは使わずに紙を折る。無地でなければ描かないというこだわりが、私の暇つぶし計画を簡単につぶした。
こういうささやかな頑固が、自閉症を育てにくい子だと思わせる。
でも「そういうもの」だとわかってしまえば、あとは準備と許容の問題で、日常生活に支障はない。準備、準備さえあれば。ああ!!
少しだけ稼いだ時間、福助は紙を折り始めた。最近折り紙に凝っていてよかった……だが、長方形の予定表、何かが折れる形ではない。
校長先生にコピーして提出した資料全部が、すぐ目前の机上にある。
私はなぜ、せめてその原本を持っていなかったかと後悔した。裏に絵でも描けばおとなしくできるのに。
「なぜ僕だけ、校長先生に会うの?」
と聞いた福助。この資料を渡したかったからだよ。という言葉は飲み込んで、わざとわかりにくい説明をしたが、きちんと座っていられたら、この学校に入れるんだよとでもいっておけばよかったか。交換条件も報酬も、何も約束しなかった。まったく、なんという準備のなさだ。福助にとっては最も苦手な、見通しも立たない状況じゃないか、この後ゴハンを食べる他は。
今更不安だからと言ってパニックを起こす彼でもないが、機嫌が悪くなればそれが病気特有のものだと判断されかねない。健常の子にも起こりうる、どこにでもあることが、診断名のために特別なものにされてしまう。そんな経験は今までもたくさんあった。
あとは、福助の気持ち次第だな。不機嫌で騒いでしまったとしたら、そのときはそのときだ。
私は役に立たないシステム手帳に手をかけた。
そのとき、手帳にお守りがわりにはさんでおいた、幼稚園のクラス写真を思い出した。
去年のクリスマス会の時に、母親も子どもも全員団子になって撮った、ちょっとファンキーな写真だ。「私の宝物」と裏書きして、いつも手帳にはさんでいた。
みんな、頼む、力を貸して!!
私は福助にそのクラス写真を渡して、「P子ちゃんに誰が誰か説明してあげて」とだけ言った。校長先生は時折福助を見つめながら、毅然とした態度で私たちに質問をされる。
写真を見て、イライラが始まっていた福助の、表情が一変するのがわかった。
「P子さん、これ誰かわかる? ○○ちゃんだよ。この子のおかあさんは、この人。赤ちゃんがいるんだよ」
こうなると乗せ上手なP子、「あとは任せて」という目配せで、「その子は何が上手なの?」なんて誘導してくれる。全く、P子はいつもピンチに必ず頼りになる女だ。おかげで、私と相方は校長先生とのお話に集中できる。
30分もしただろうか。気がつくとまだ小僧は上機嫌で写真を眺めて、こそこそP子と話をしていた。
すべて了解しました、とおっしゃった校長先生は、福助をしばらくみつめて、
「先ほどから見ていましたが、ご子息はずっと静かに座っていられました。経験上、この子に通級が必要だとはどうしても思えません」
と静かに述べられた。
望んで望んで、望んでいた言葉が、そこにあった。
認めて欲しかった人に、きちんと認めて頂けた。
「診断が消える、と言うことはないのですか」
とも聞かれ、それはないと思うが、苦にしなくなるというか、克服した状態はありうると思うと言うと、
「そうですか。では、ここまで社会性を身につけたのも、どれほど愛情深く育てたのか……そうですか。ご両親の力ですね」
私は、福助をじっと見る。視線に気づいて福助が私を見る。
「終わった?」
と小声で聞くので、あとちょっとだよと言うとまた写真に見入っていた。
ご両親の力……いいえと私は即座に首を振る。
謙譲に見えただろうが、そうではない。
福助を変えた力、それはーー。
その一番の原動力は、その写真におどけて笑っているクラスメイトたちなんだ。
彼らが与えてくれた力こそが、福助を変えた。
だって、一枚の全員写真だけで、こんなに長い時間語れてしまう、語り尽くしても尽くせないほどの、それほどの楽しさをたっぷり与えてくれている、大好きなクラスメイトなのだ。
ひとりひとりの、ちいさいけれど大きな支援。こんなところで巨大な力になって、奇跡を起こした。
福助がどんなに変な行動をとってもクラスの仲間として決して見捨てず、拒否することなく、ずっとやさしく受け入れてくれた、この笑顔の、なんて尊いこと。
写真の中で変な格好で微笑んでいるファンキーな母親達ひとりひとりも、全員で福助を育ててくれたんだ。
ただのひとりも、ただのひとりも私達に、敵意や差別や困惑を向けた人はいない。
このとんでもなくラッキーな巡り合わせが、福助の療育を成功させたんだと思う。
視線の合わない福助に根気強く声をかけ、ちょっとずつ慣れていく過程を共に楽しんでくれた。奇妙な態度の福助に関して、「いいのよ、あの子は今はそれでいいの。そのうちちゃんと出来るようになるからね。教えてあげてね」と自分の子どもに笑顔で伝えてくれたから、子ども達は誰一人偏見を持たなかった。「こんな記事があったわ」と切り抜きをくれる人、理解したいからと本を借りにきてくれた人。自分の抱える苦労を語ってくれることで、共に荷物を分かち合ってくれる人。できなかったことがひとつ出来た福助を見ていて、報告してくれる人、一緒に涙を流してくれる人。
そんな友達、ありえる?
そんな奇跡みたいな友達ばっかり、32人も福助の周りにがっちりいれば、そりゃあ福助だって変わっていくだろう。さらに32人の母親達。その兄弟姉妹達。
福助の言語を理解する先生方がいて、福助はちゃんと感じたのだ。
「ここはいいところだ、この人達はいい人みたいだ、仲良くなりたいものだ」
そう思って初めて、福助は福助なりの工夫で前進する。
どんなに強制したって、そこのところがなければ動くはずがないのだ、だって彼は人一倍頑固なのだから。
ありがとう、みんな。ありがとう。
みんなのおかげで、ありのままの福助、やっと認めてもらえたよ。ありのままの福助を認めてくれた、みんなの力が、そのまま作用したみたいだ。
ありがとう、みんな。
どんなに感謝しても、足りないよ!
「幼稚園の写真を楽しそうに見ている姿で、幼稚園での過ごし方がよくわかります。小学校は、幼稚園の延長線上にあります。違う部分ばかりことさらに気にしなくていい。幼稚園でしっかりと生活出来ている子は、小学校でも大丈夫です。福助君は、大丈夫です。私たちがちゃんとお預かりします」
と、校長先生は言われ、この集中力といい、将来が楽しみですね、とも付け加えてくださった。
将来が楽しみだと教育機関で言われたのも、初めてだった。
今まで私の知る限り、教育機関は苦手な事に着眼して、そこを押し上げることで平均値を上げようとする考えばかりだった。好きなことや得意なことは、公立ではあまり受け入れてもらえないのだと思っていた。いいところに目を向ければ、病気は武器でもある。確かに、集中力は半端ではないのだ。それが何かに活かせるといい。自分のために、そのうちに、誰かのために。
帰り際、福助は校長先生からさしのべられた手に、がっちり握手をした。
「がんばるんだよ。よろしくね」
とにこやかに微笑む校長先生に、
「はい」
と、照れくさそうに、それでもしっかり返事をした福助。
これで、福助の普通学級のみ・通級無しの就学が決定した。
いい校長先生に巡り会えたと思う。またしても福助は強運だ。
強大なパワーを与えてくれた、奇跡の写真。クラスメイトとその母達がぎっしり、にこやかに、変なポーズで笑っている、そのお守り写真を、私はまたそっとシステム手帳にしまった。
ゆうこさん、朝から号泣ですよ〜。
こんな時にも、幼稚園のクラスメイトさんたちが助けてくれるなんて・・・。
そして、いい校長先生にめぐり合えてよかったですね。
こんないい方たちにめぐり合えたのも、福助くんとゆうこさんの人徳ですね。
小学校でもきっと素晴らしい出会いがたくさん待っていますよ!
うちのムスメも今月に就学検診です。
いよいよ小学校モードですね。
うちのムスメにも、福助くんみたいに素晴らしい出会いがたくさんありますように。
仕事中なのに泣きそうになって困りました(笑
いい教育者に出会えるのは素晴らしい事ですね!
うちもいい人に出会えるといいな・・・まだ子供は居ませんが(笑
あーちきしょう、泣いちまったぜ
きちんと物事を判断できる校長で良かった
クラス写真の力はすごいな
でもそれだけ仲が良くて意思の疎通が出来てるって
幼稚園ではすごいことだと思います
楽しいんだろうなぁー
小学校でもたくさん思い出出来ると良いなぁー
しかし、、、P子ちゃん (o ゝω・)b GJ
拍手(パチパチパチ)いい話が聞けた。自分も、お昼休みに、うるうるして・・・
自分の娘は、3歳(年少)で、自分事だけで精一杯な感じですが、福ちゃんの幼稚園仲間のように、友達を思いに(一緒に遊ぶ)育って貰いたいな。
もとい、育てなければ。
ゆうこさん、ホントにおめでとうございます!
福助くん、いいお友達がいっぱいで幸せですね。もちろん、お友達のおかげではあるかもしれないけれど、ゆうこさん、ご主人の努力あっての幼稚園生活だったと思います。
親になるとよくわかります。黙っていては友達はできないものです。ましてや発達障害を抱えていると、周囲の視線や、いろいろな要因で家にいた方が、こもっていたほうが楽な時もあって・・。ついついわかってくれそうな人とだけつきあってしまったり。
うちは来年幼稚園ですが、どうやら、主人の転勤で北海道から東京に行くことになりそうです。
鈴木家目指してがんばりますね!またまた元気もらっちゃいました。ありがとうございました。
良かったですね、と単純な言葉だけで伝えたい訳では
ないのですが、これしか浮かんでこないのです。
なんだか、涙か止まらないです。自分のことみたいにうれしくて
ゆうこさんもPちゃんも、みそ先生も…そしてなにより福ちゃんと
大事な大事な仲間達との時間がものすごい宝物ですね。
いつか私も子供が生まれたらすてきな時間が持てる仲間に出会いたいです。そう、思いました。
就学、おめでとうございます!!!
本当に良かった。
胸がいっぱいになりました。
今までの頑張りが報われたね。
ああ、だめだ…何度読んでも泣いてしまいます。
仕事場だというのに目が真っ赤になり不信がられてます(笑)。
昨日の日記の「つづく」が気になって気になって…。
で、今日、一気に読んで一気に涙…でした。
私も福ちゃんのまわりのお母さんたちの仲間になりたかったなぁ。
でも本当によかったですねー。
ああ、よかった〜。
通級なしの就学おめでとうございます!!
私も涙とハナミズをたらしながら読ませていただきました。
小学校通学についてはまだまだハードルがあるかと思いますが、良い校長先生のいらっしゃる学校で本当によかったですね。
Posted by: たかぽん : 2006年11月08日 20:59 明日、妻だけ上京します。私も付き添い(バカンス)のつもりが、どうしても仕事で抜けられなくてつい今まで妻のマネージャーと化して状況手順を一から十まで教えていたところです。(妻の単独活動レベル、小学生3年生並みw)
ようやくフリータイムでいつものサーフィンやって、仕事の合間に万華鏡見なくて良かったです、ホント。
強運も徳あってのものだと思います。
自分もこんな上司だったら、もう少しまともに働けるカモ。
と、冗談はおいておいて、もう少しでサンタの季節です。はい。
おめでとうございます。
これしか言えません。
「夕焼け見よう。」に続き53歳の男子は泣きました。
今回は仕事中でなくてよかったです。
大阪に仕事できています。
ほんとよかった。
信じる心が世界を変えていく。
みそさん、ゆうこさん、P子ちゃん、
おめでとう。福助から俺も勇気を
もらいました。
ずっと読みつづけていましたが、この日記が読めてほんとうによかった…。
一番ほしい言葉をいただけましたね。
すてきな校長先生でよかった。
素晴らしい仲間がいてよかった。
心の底からおめでとう!
やったーーー!とガッツポーズしました。
福ちゃん、ばんざい!
優しさや嬉しさが
どんどん波紋となっていきますように。
とてもとても あったかい気持ちです。
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