モーツアルトの特番を見た。
天才を育てるには、環境が大事。親の教育が大事。
天才の脳と私たちの脳、たいした違いはないのだという脳科学者の力説を頼もしく聞きながら、それでも番組が最後まで触れなかったことを残念に思った。
現代のモーツアルトとして取材されている子は、自閉症なのだ。
別番組では、告知を受けたときの親のショックと、そのあと発揮した天才性について細かく追っていたのでよく覚えている。
顔が違うように、脳もそれぞれひとりひとり、ぜーんぶ違う。そもそも、自閉症も「…と思われる」という診断しかでないのだ。私の中にもあなたの中にも自閉症的傾向はあって、それが濃いか薄いかの違いだ。
例えば、好みの範疇なのか、病的なこだわりか。というともう、ギャランドゥーなへそ毛はどこから陰毛か、というぐらい難しい話なのかも知れない。
つまりは、陰毛じゃないと言い張ればそれはへそ毛である。病気じゃないと言い張れば、それは個性、天才性なのである。特に言い換える気もないし、診断出ているから、福助は病気の子だけど、ソレは同時に天才かも知れない可能性を頂いたわけよねと思うと、なんかお得な気持ちになる。
相方は映画「アマデウス」が大好きだ。
多分それは私がお寿司が大好きなのと同じぐらい、大好きだと思う。
相方の好きなモノはできれば好きになりたいので、一緒にディレクターズカットを見てみた。……途中、居眠りして起こされつつ。
私がレビューを書かないのは、レビューが書けないからだ。
映画を好んで見ないのも、きっと私には人の心の機微がよくわからないからなんだと、相方と感想を話していて気づいてしまった。
サリエリって、地位があるのに神経質で不幸だなあ。
モーツアルトって、才能あるのに下品で不幸だなあ。
二人とも、今ある幸せに気づけばいいのに。
と、すべての物事を単純明快に処理してしまう。
それでは文学は語れない。生きては行きやすいが、薄っぺらい。その心の薄さを隠すために、私はこんなに厚い脂肪を身につけていたんだろうか。
せいぜい、「でも「趣味としての不幸」というのもあるんだろうなあ。モーツアルトは病気で壊れてるんだし、そこに憧れてもなあ。その結果、サリエリが壊れてしまった辺りがやりきれないなあ」という展開がやっとで、42年間、私の目は思い切り節穴だったのだなあと痛感した。
我ながら、つまんない女だと思う。
シンプルな強さ、みたいなものしか持ち合わせていない。例えるなら、自分の心の、どんな部屋にどの友達を住まわせ、どんな自分がその友達と語り合うか。
インテリア雑誌を飾るお部屋を心に持っている人、旧華族みたいにお部屋がたくさん心にある人、モダンできっちりしたルーム、のだめのようなゴミ屋敷の部屋が心にある人に比べると、私の場合は江戸時代の長屋の、箪笥一棹ちゃぶ台ひとつ。みたいなスパッとした愛想のない心向きだ。
多分、こんな風にカラッポの風通しのいい部屋の部分で人と会い、お茶も出さずにぱぱぱっと用件だけで帰ってもらい、もう一つ心に持っている、天才を育む「こだわり」のお部屋で密かに一人ほくそ笑む。てぇあたりが、きっと自閉症の子のある種の特徴な気がする。
わはは、私もたっぷり持ってるぞ、自閉症的特徴。人の機微がわからないし、他人に対してさっぱりしすぎてるし。天才のお部屋がないけどな!
どんなお部屋を心に持とうが、心は見えないから構わないと思うが、こんなに心に何もストックがない単純なつくりでも、なんとか社会適応して生きてこられたんだなあということをなんだか寿ぎたくなった。社会が多様化すると、変わり者には生きて行きやすい。
化学物質のせいか生活習慣のせいだか何だか、原因は不明だけれど、子ども達の発達には明らかに問題が起こり始めていて、発達でひっかかる子どもが急増しているとよく耳にする。
でもさ、大丈夫なんだよ、きっと。ちゃんと生きていける、それなりに楽しく。
私の場合はものすごくたくさんのごてごてした家具や肖像画や義理のもらい物を、ある日いきなり捨ててしまって、こざっぱりした暮らしにしてしまった気がする。もともと壊れていたというより、自分で壊したのかもしれない。
私は私なりに、文学や芸術を味わう大脳新皮質で生きる素養を捨てて、現実に楽に生きていく小脳的生き方を選んだのだと思う。無意識に。
だって、思春期には人間関係などでいっぱしに悩んだ記憶もかすかに残ってはいるんだよ。中学校一年間行かなかったから、暇だったしね。
で、結論は「しょうがないじゃん」だった。
だって、どんなに考えたって人の心なんか、わかんないんだもーん。
私を嫌うなら嫌えばいい、嫌われることに脅えていたってしょうがないじゃん。
別にそいつは、私の命まで取ろうとはしないだろうし。
私が好きな人が私を好きにならないなら、他にも好きな人を作ればいい。
一人に執着したって、その彼や彼女はオールマイティーってワケでもないんだし。
私が嫌いな人が私を好きなら、その人に好ましい場所がないか探せばいい。
ただ見えていないだけかもしれないし、見えてどうしてもイヤならゴメンネ、親しくはつきあえないやと言えばいい。
そして私が大好きな人が私を大好きなら、とってもとってもうれしい。
結局、複雑な機微はわからなくてもこんなにたくさんお友達がいて、壊れた部分は仕事に活かしてもこられた。
芸術から複雑な知的喜びを感じたり、それを創り出してしまう人の方が、正直、ちょっとカッコイイ気もするが、そこが理解出来ない単純な自分でも、わりとぬくぬく生活していて、楽しい。いや、いっそ潔いところがカッコイイかもしれない。
環境と親の教育があれば、誰もがモーツアルトになるようなあの番組の見せ方は間違いだ。
そこに病気という特別な何かがなければ難しい。
では病気の子どもがみんな天才かと言うと、それも間違いだ。
けれど、環境と親の教育が整えば、病気の子どもでもそうでない健常な子どもでも、自分なりの生き方をみつけていけるといういい方なら、きっと正しい。
そして自分なりの生き方がみつかれば、それは病気でも健常でも、案外、楽ちんでハッピーでカッコイイ生き方になる。
人格は多少破綻していても才能一発で生きていくのもカッコイイし、ないものに憧れて努力しつづけて何かをモノにするのもカッコイイ。私のように努力せずにハードルを下げまくり、日常を愛するのもまたカッコイイ。
自分なりの。
それが一番大切だと思うよ。
<おまけ>
福助、昨日、小学生の部でサッカーの練習試合に出る。彼が考えた戦略はゴール前で張り、速攻のシュートだったらしく、最後まで集中して、六年生までいる混合チームでとりあえず何回かシュートし、やっと一点をあげた。
その前日、幼稚園生の4対4のゲームではディフェンスラインでボールを奪い、縦横無尽にドリブルで走り、軽くハットトリックを決めていたものだから、このゲームで走らないこと、ボールを取りにいかないことにイライラしつつ見ていたが、考えてみれば11人にしては狭いグラウンド、そこで自分の1.5倍の大きさに絡んで無駄なディフェンスにいくより、得意のノートラップシュートに賭けるのは、ある意味で正しい。
彼には彼なりの。
それが一番だったね。
そこに気づかず、「走れ走れ」叫んでいたことを反省する。まあ、周りの大人はたいてい無理解なものだった。それでもそこから彼らが学んだ事もあったのかもしれないなと、今ならわかるわ。
2006年11月05日 09:44ええっと。
重箱の隅突付きの揚げ足取りの「メインテーマと違うよ」的小言ですいません。
卓袱台。
「卓袱台(ちゃぶだい)は、大正から戦中を経て、昭和40年代にかけて、日本の家庭で一般に用いられた四脚で折りたたみのできる木製の食卓(テーブル)。」
ウィキペディアより。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%93%E8%A2%B1%E5%8F%B0
マンガでも良く勘違いされて出てきますが、戦国時代にも安土桃山時代にも(バガボンド)、江戸時代にも(あずみ)卓袱台は無かったのです。古代〜中世〜近世まで、ずううううっと銘々膳です。
身分制封建社会の皮膚感覚が、いかに現在の日本人から抜け落ちているかの証左と言えましょう。
卓袱台は「昭和の一家団欒の原風景」です。
あ、そうだね。
私はお江戸文化が大好きだったのに、とんだ間違いを!!
あの当時は箱膳だ。
これはしたり。
また勉強し直しだー。
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