2009年03月11日

軋轢を恐れず

私の書いた日記が、どこかの掲示板に貼ってあったことがある。
善意の掲示板だった。
珠玉の言葉という感じで、私がムスメに語った話を貼り付けてあった。
喜ぶべきことなのかもしれない。
それでも、私は「私として発言していること」を、断りなく、出典もなく、使われちゃったことが悲しかった。

私は掲示板が嫌いなんだと思う。
善意もあるが、たいてい、どこかの誰かが、匿名で言葉の石つぶてを互いに投げあっている。
そこにも真実はあるだろう。大衆の声かも知れない。
だが。
私は自分の意見を言うときには、きちんと「自分」として言いたい。
匿名で発言することはない、何かのアンケート以外。
間違っていれば訂正するし、必要があれば謝罪する。それが発言するということだ。
憤怒していることは憤怒しているといい、爆笑したことは爆笑したと言う。
誰もが思ったことを言えばよい。きちんと、個人の責任で。
誰が言ったかわからない意見が重用され、それが人を傷つけないコミュニケーションの形だなどと大人たちが思い込んだら、子どもたちに未来があるだろうか。
個人で言う意見は、どんなときにも尊重される。
その内容がどうであれ。
だから私は個人で堂々と意見を言う人が好きだ。
その内容がどうであれ、意見として聞くべきだと思っている。
立ち位置の問題で、100パーセント善、100パーセント悪などという事象はないのだ。

……そんなことを、私は常々、ムスメに教えている。
だからムスメは大人に対して、実に堂々と口答えをする子どもに育った。軋轢を恐れない。(……私より賢いのは、私に比べて全く軋轢が小さなことだ。調整がうまい)。
私は彼女の、正しいと思ったことを自分の責任において言う、という、その姿勢を正しいと思う。
自分の責任で意見を述べるのだから、私はムスメのどんな意見でも、弾圧することなく聞いてきた。
まだ他人の言葉を借りることもある娘だが、そのうちそんな補助輪ナシに、自分の意見をまとめることができるようになるだろう。
そこから対話が生まれる。だから人は面白い。自分が意見をいい、相手の意見の整合性を聞く。意見の違いは、対話の中で調整していく、その訓練をしていないと、異文化の中では暮らせない。

何かを発言することは、いたずらに軋轢を生むだけだという考え方もある。
自分の名前を隠して誰かを実名批判するのと、個人として意見する区別のつかない大人が多い中で、
誹謗と批判の区別がつく大人がどれほどいるだろう。
だが、私はまだ信じている。
少なくとも、私の身の回りの友人たちは、個人の意見を尊重することを熟知している人ばかりだ。大人の世界は希望に満ちていると、私はムスメに伝えたい。
誰もが匿名で殴りあう時代に、それはばかげた正義感なのかもしれない。
それでも、私は力のある人を陰で悪く言ったり、公衆便所に落書きして溜飲を下げるようなムスメでなく、親友の名誉のために、堂々と自分の意見をその相手に語れたムスメを誇りに思う。

今日、ムスメは意見した相手と話しあうのだという。
上手に対話が出来ればいいね。


2009年03月11日 08:33