昨日遊びに来た友達が、ランドセルを忘れていった。
あははは。
小学生男子のお約束だよね。いいなあ、こういうおおらかなのは、すごくいい。
小僧も私も、その友達の大ファンである。
ところが小学生男子なら誰でもあることが、うちの小僧に限って言えば、小学生というカテゴライズより自閉症というレッテルのほうが重くなる。
仮に同じ笑える失敗が、小学生男子だなあというより、病気だからなあという、そこはかとなくほの暗い雰囲気がかもし出されてしまうのである。ラップというよりは演歌、というか。全然根拠のないたとえだけれど。いや、お好きな人にはたまらないんですがね。
私はうちの小僧が自閉症と診断されていることを隠そうと思わない。
そもそも自閉症という言葉が私のイメージとして天才的な人たちと同義語であり、そんなにネガティブではなかったことと、治らない病ならそれはそれで折り合っていくしかないんだ、人間完全無欠なやつなどいるはずがないというのがあって、まあそれはそれで個性ぐらいに思って育ててきた。
左利き、とかね。
在日外国人、とかね。
芸術家、とかね。
ちょっと人と違うのは、逆にカッコイイでしょ!とすら思っていた。
アインシュタイン、とかね。
エジソン、とかね。
ニュートン、とかね。
坂本竜馬、とかね。
変わり者だが、面白い。
美形で、執着と集中力が人並みはずれていて、そのくせ正直者。うーん、理想のおのこではないか。もしこの子がどこから見ても平均値で、めちゃくちゃ個性がないという個性だったらそれはそれできっと溺愛していた気もするが、同じようにめちやくちゃ個性的に資質に恵まれたわけで、それはそれでとっても幸せなことだし、やっぱり溺愛しちゃうのである。
最初に産んだ男の子を二人も亡くしている。
それと同じ顔の小僧がどんなに育てにくかったところで、生きてるんだから。すごいよ、生きているということは。おめでたいよ。
そして、溺愛されて育った自閉症は、まあそんなに問題なく育つんじゃないかと最近思う。
だって子どもは大人よりずっと柔軟だもの、最初に困るのは子どもではなく親の方だったりするのだし、その親が真剣に取り組む課題がちょっとばかり多いというだけで、何か世間に恥じるようなことは何一つないんだもの。
ないのにね、それでもあからさまないたわりが心に痛かったりすることもある。
これが、ラップの明るさに対して演歌というか、日向の輝きにたいして日陰のイメージというかね。
小僧を持つまで、病名に対して、知らなかった感情を逆に植えつけられている感じもある。
いや、それでもね、多くの人たちは優しさでそういってくれているのだから、たいていはありがたいなあと思うんだ。小僧は強運で、実際、直接の知り合いはみんなとても普通に接してくれる。
ただ、ネットなんか見ていると、中には自分の子どもの不利益になる、迷惑かける子どもは出て行けというモンスターペアレント的な発言があったりして、がっかりしちゃうよね。
子どもなんて、五十歩百歩なんじゃないかと思う。
小学生で、いったいどれほど立派な完成されたお子様をお持ちで?と、そういうお高い方には、ちょっと意地悪のひとつも言ってみたくもなっちゃう、腹真っ黒な私。
ゴールは、小学生じゃないのにさ。
この先、人は死ぬまで生きるんだからさ、たくさんあるよ、いろんな修羅場が。逃げられない、運命や試練が。
そのとき、困難を乗り越えるための生きる力を、たっぷり蓄えておかないとね。
まだ柔軟な時代に、いろいろな人と接して、いろいろな知恵や価値観に触れて得られる経験をフルに活かして。
やさしさや、いたわりや、多分道徳の教科書にはのっていても実践できないことが、日常にはたくさん転がっている。
意外に、そんなにがんばらなくても、ただ愛してくれる人が一人が二人いれば、何とかなっちゃうという真理もね。
親が最初に、どんな子であれ溺愛できたら、その子の人生、大半はうまくいきそうな気がする。「親御さんの理想の完成形」じゃなくてもさ。
そういう大事なことをちゃんともらって育った子は、きっと大人になっても大丈夫なんじゃないかと思うんだ。体の内外、心の内外、環境要因、どんなところに障害を抱えようがね。
立派で完成されたお子さんが、途中で親の期待に応えられなくなって、疲れてしまわなければいいと思う。お子さんに、罪はないからさ。
今、自閉症というと、誰もが「ええーっ」と驚く、小僧。
「自閉症の」小僧ではなく、小僧自身を見てくれてる人が多くて、助かる。
それが結果的に自閉症の理解につながっていけばもっといい。
小僧は友達が大好きで大好きで、学校が大好きで大好きで、先生が大好きで大好きで、家族が大好きで大好きで、生きていることが大好きだ。
日本通の外国人が早速日本人くさくなるように、落語が好きと思ったら早速通になるべく娯楽にさえ真剣に努力してしまう私の血が、小僧を自閉症らしくない自閉症にしてしまったのだと思う。
治らない。でも、適応している。
それは生きる力だ。
私自身が、最近どうもいろんなネガティブワードに触れる機会が多くて、見方がぶれてしまい、やけにうらぶれたイメージを勝手に描いては、イライラしていたんだけど、ちゃんと軌道修正しなくちゃなと思った。
だいたい、周りの人たちの善意と支援を、誰よりも知っているのは小僧と私たちだ。
ありがたい。小僧が特殊状況でなければ、多分私は知らないまま生きていたと思う、人の持つ大きな力。
大人の善意で、子どもは育つ。善意をたっぷり浴びて育った子どもは、大人以上に善意を放つ。
遠く離れた、友達でもない人の悪意などに翻弄されるのは馬鹿馬鹿しいと思え、私。
溺愛だけでは解決しないもろもろの問題があることもわかっている。
マジ、課題は多い。
けれど、一番大事なのは、溺愛だと思う。
ああ、うちの小僧はかっこいいし、かわいいし、馬鹿だけど、ほんとに素敵。大飯くって幸せそうにしていて、サッカーしか興味なくて幸せそうにしていて、本当にすばらしい。自慢、自慢。
あっちに振れたりこっちに振れたり、親の私だってまだそんなにキャリアがあるわけじゃなく、問題に対して迷いに迷いながら答えを出していくわけだけれども、なんかね、これだけは絶対だと確信がある。
愛がすべて。愛にこそ、きっと答えがあるんだ。
どんな変わった形の子どもでも‥‥耳がほかの象より長くったって、一寸しかなくておわんの船に乗り込む法師だって、生きていることに、大きな意味がある。
娘も息子も、私のところに生まれて来てくれただけで、本当にありがたいことだよ。‥‥忘れ物番長と化した粗忽な小学六年と、一点突破全面展開な小学二年。
かあちゃんはね、君たちがとても好き。
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