私が長いこと誤解していた、おそらくそれ以上に私を誤解していたママ友達に、お茶に誘っていただいた。
以前、ぴしゃりと「私とあなたは、気が合わないから!」と面と向かって言った方だ。
正直、驚きつつも、とてもうれしいと思った。
そういうのって、きっととても勇気がいることだったに違いなく、その勇気に敬意を表する。
私は声も体も態度もLLサイズで、彼女は小さくて愛らしいSサイズである。
その大人気ない一言だって、無神経な私の言葉に傷つき続けた彼女が発した、窮鼠猫をかむ叫びだったのかもしれない。
まあ、実情、どちらかというと私が河馬(草食系)で、彼女が山猫(肉食系)のようなタイプなので、内心は私のほうが怖がっていたのだが、ここはひとつ私も女だ、勇気をふるい、ありがたく、うかがわせてもらった。
そして、案外……実に意外なほど、楽しく話をした。
いろいろなアプローチは違っても、最終的には子どもの安全を願い、健全な成長を見守る母親同士である。共通の話題はたくさんある。
いれてくれたコーヒーは、素敵なカップを使っていて、本当にとってもおいしかった。彼女はお金持ちだから、もしかすると私の飲んだこともないすごくいい豆を使っていたのかもしれないのだが、私には彼女の心遣いが何よりのご馳走で、だからきっと、誰が入れてくれたコーヒーよりもおいしかった。
昨日の敵は今日の友。いや、君子豹変すか。柔軟に生きていきたいと願わずとも、私のような単純な人間は簡単だ。あんまり簡単すぎて、自分でもあきれるほどだ。
一杯のお茶が、近づけてくれる距離がある。
言葉によって傷つけあってしまったから、正直、私たちの使う言葉はひどく表層的で、この先もあまりうまく言葉ではコミュニケーションを取れないのかもしれないけれど、少なくとも私が思う彼女はかなり誤解が多かった気がするし、多分私に関しても多少の誤解は解けたような気がする。
嫌われるのは仕方ないとわかっていても、嫌われ続けるのはあまりいい気持ちじゃないからね、普通に。
気が合わないと宣言されて以来、気が合わないものと決めてかかっていたけれど、全面的に絶対にダメというわけでもないんじゃん。と、笑いながら思う。拒絶された以上、ご迷惑だろうからなるべく目に触れないように…なんて、気を使いながら「なんでアタシが!?」とイライラしていた、そういう自分のかたくなさも、一緒に笑い飛ばした。
一杯のお茶で思い出すのは、娘が幼稚園のときの、ママ友達だ。
ものすごーく疲労困憊していたとき、半ば強引に家に誘われたことがある。
疲れているので早く家に帰りたいと正直に言ったのだが、いいから来て。お茶を一杯だけつきあってほしいの、と、腕をとられた。
そして、彼女は私をリビングのソファーに座らせると、何も言わずに紅茶を出し、黙って自分も紅茶を 飲んだ。
静かな、厳かな、儀式みたいなお茶会だった。
それまでの激昂と疲労が、すーっと流れていくのを覚えた。
涙が出るほどおいしいお茶だと思った。丁寧にいれてあるそのお茶と、ウェッジウッドのティーカップ。
「少し落ち着いたら、いつでも帰っていいわよ。話したいことがあれば聞くし、話したくなければ話さなくていい。家に帰ったら子どもの世話でしょ。ゆっくりお茶を飲む暇もないかと思って。このまま背中を見送れなかったの。どうしてもね、鈴木さんにお茶を入れてあげたいと思ったのよ」
さほど親しくない人だったのだが、私はいまだに彼女のやさしさを忘れない。
彼女に学んだお茶の効用は絶大だった。
彼女のような人になりたいと思っていたのに、静かに気持ちを受け止めてあげられる素敵な女性になりたいと思っていたのに、思慮が浅い私には、一杯のお茶をサーブすることすら未だに高いハードルなのだ。
何でもない市井の人が、なんでもないものを、とんでもなく輝く瞬間にしてしまう。
だから私は人と関わるのが大好きだ。
粗忽でうるさくて単純な私にも、いつか、おいしいお茶が入れられる日がくるといいな。
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