2008年08月11日

おっかさんという仕事

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更新しました。毎週月曜日が更新日なんですよ。
ああ、寄席、行きたい! 自分のお楽しみが後回しになる人生、それがおっかさんという生き方。

でも、おっかさんにはすごい報酬があって。
私は、昔から「子どもが一生懸命」と言うのがツボで、ものすごく弱い。子どもがいない頃から、ごーごー泣くぐらい、好き。初めてのお使いなんか、涙なくしては見られない。
だから子どもがいる暮らしというのは、お菓子好きがケーキ屋さんに勤めるぐらい、幸せなことなんですよね。

さて、昨日、地方遠征に行った大きな少年サッカーの試合で、私はたくさんの一生懸命を見ました。
みんなとてもとても素敵で、全然関係ないチームにすら、惜しみない拍手を送ってました。
そして、当然のことながらうちのチームの子達は素晴らしく、うちのチームのファンである私は、それはそれはもう、涙しつつ熱い声援を送った灼熱の大会でありました。特に、二年生になってから始めたばかりの子が、決してうまくはないのかもしれないけれど、試合後に足が上がらなくなるほど走っている姿に、何度となく涙が……。
普段ふざけて叱られるばかりの子が、相手につぶされながらも前へ前へ真剣なまなざしでドリブルしていくところとか、うちのチームのエース、幼稚園時代からの朋友、リン君(仮名)がシュートを決めるたび、そりゃあもうカッコいい!と胸までときめいちゃって、どんな国際試合より堪能しましたよ。
帰りのバスの中で即座に眠りこんでしまうほど、その小さな体で闘志をむき出しにしている子もいて、その寝顔を見ながら、ああ今、私はおいしい場所にいるなあと思っていました。選手に身近なサポーターって、そりゃあもう、たまらない立ち位置。すぐに握手をしてもらえます。ほしかったらサインだって足型だって、もらえます。ま、サインはいらないとしてもさ。

ただ、今回、なぜかうちの小僧がいまひとつ一生懸命にならなくて。
歯がゆい。
イヤそれなりに一生懸命だったのかな、でも、なんとなく一生懸命の方向が違うんです。
みんな、相手に立ち向かうことや仲間と一緒に同じ目標に向かって一生懸命なんだけど、一人自分の精神的な毛づくろいに一生懸命な小僧を見て、「難儀だなあ」と正直思っていました。
気持ちがゴールに向かわない。普通に見れば向かっているのかもしれないけど、ボールぶつけて鼻血出しても一秒でも早くピッチにたちたいんだ、足のマメがむけていてもその痛みに気づかないほど走っていたんだ、という、そういうがむしゃらな気迫がきれいさっぱり消えていて、今までの彼とは明らかに違っているのでした。憑き物が取れたみたい。
いったい、どうしたんだ?

ものすごい情熱でサッカーを選んで、ただもうボールさえあれば幸せな僕。という感じで夢中になっていたので、テレビゲームには規制をつけるけれど、サッカーには規制をつけない、だからなんとなくずっとボールが足元にあるような暮らしが普通でした。
がむしゃら感の消えたサッカーが小僧のスタイルになったのなら、まあそういうものだと方向を修正していけばいいんだけど、正直、この先、誰よりも早くボールに届くように、一生懸命ボールを追いかける小僧が見られなくなるのかなあと思うと、熱烈サポーターとしては残念だったりもします。
ま、一回で決め付けるのもどうかと思うんですがね。その日の調子だって、あろうし。

普通だったら、この辺で終わりな話。サッカーママとして、次に頑張ろう!と書いておしまいです。
ところが、こういうときに、私、すぐに診断名がちらついてしまうんですね。
全員泥だらけのユニフォームなのに一人きれいなまま、最後の試合に負けて泣きながら整列した子もいるのに、うちの小僧はさわやかに笑っている。今までは確実に泥だらけ泣きべそサイドにいたはずなのにと首を傾げます。最初からそういうキャラなら、ソレはソレなんだけど。
疲れちゃったと自ら最終戦のベンチを希望したこともびっくりだったし、それなのに移動のバスでは誰よりも元気一杯というのも解せない。情熱をなくしてしまうことで負ける苦しさから逃げたのか、あまりに今までと違う態度に、私が混乱してしまいました。
その特徴である「負けず嫌い」は今までボールに向かう闘志として生きていたのに、回避する形の負けず嫌いを考え出しちゃったのかなあ。
今までサッカーにおいてこういうずれ方をすることがなかったので、この違和感は、恐怖に近いよ。

診断は受けてよかったと思うし、そのために早期トレーニングができたのは、光明でした。今は多分、どこから見ても普通の人に見えます。ちょっとサッカーがうまくて、計算が速くて、友達もたくさんいて明るく、研究熱心だが同時に苦手なことは率先して努力する、通知表にそんな風に書かれる子です。
でも、何かあるたびに必要以上に将来を憂いそうになる診断名の重さ、ものすごく苦い気持ちは、課せられた十字架のように感じることがあります。

「脳の使い方が一般の人と違うので、ある種の特徴をもっています。快不快が、マジョリティーとずれるわけで、多少生きていきにくいかもしれません」
発達障害と、診断された時に言われた言葉です。
「生きていきにくさ」こそが障害と呼ばれる所以ですが、、生きていきにくいなら環境を整えさえすればいいと私は思いました。田んぼに持っていっても意味がない桃の種でも、うまく育てればおいしい桃の実が収穫できます。価値ある米にはなれずとも、人は米のみに生きるにあらず、その個性の活かしどころを探せばいい。
小僧の場合、ユニークな脳の使い方は、尋常でない視野と感応力と瞬発力をもった個性になりました。それがまたサッカーに適していたので、正直、そこで迷ったことはありませんでした。
球筋の読みがいいのは、言葉ではなく感覚で理解する人だからで、昨日もPK戦のGKを勤めたとき、方向はすべて、見事に反応していました。
苦手なことは最低限しかやらせず、社会的なことは徹底して訓練し、同時に飛びぬけた能力を磨くことで「愛される変わり者」になればいいと願いました。好きなことだけ徹底的に。おっかさんとして、とことん付き合う。そうやって身につけた自信は、彼自身を変えていき、いろいろなことが、うまくいっていました。

だから、この違和感が怖いのです。後ろ向きに見える彼の小さな変化が怖くてならない。

サポーターとしては、次に頑張ればいいよ!と、両日のいくつかの見せ場を讃えればいいことなのですが、親としては、いっちゃえばサッカーは生活の一部にすぎず、大事なのはそれ以外の生活ですから、恐怖に立ち向かわずに休んだり茶化したりして逃げることだけを探しちゃったら……と、トラブルを想像してため息をついちゃうわ。
オフザピッチでの出来事は、オンザピッチで生きてくるーーサッカーを例にとって話せばなんでも理解してきた、その魔法の言葉が消えてしまわないように、祈るばかりだなあ。アスリートの名を出せば、何でも言うことを聞いていたしねぇ。それは多分に、親の都合なんですけどね。

これもまた、成長の形なのかもなあと相方と話す。ま、そうならそれでしかたないやね。
でも、おっかさんとしては諦めちゃいけない部分があります。小僧がどうしても退却人生を歩みたいならそれはそれで認めるしかないのだろうけれど、逃げるのはかっこ悪いよということだけは、ちゃんと教えないと。私ごのみじゃないよ、というのをどこまで押し付けていいのか、そこも問題で、考えるべき課題がいっぱいだ。あー、おっかさんの夏休みは、忙しいです。

おっかさんの仕事、というのは、終わりがない。彼が好きなことを見つけて、一人でそれができるようになったなら、とっとと自分の人生を取り戻したい、そろそろ放置しても大丈夫かなと思っていたんだけれど。まさか今、ピンチを迎えるとは思わなかったなあ。
子どもが大人になるまで、大人になったらなったで、口は挟まなくても永久に心配し続けるのかしら。……長い。

とりあえず、時間見て、寄席にでもいってきます。

2008年08月11日 09:22