その日、幼稚園でサッカーをして、福助は泣いた。
私は腹を立てていた。その立腹をあとで恥じることになるのだが、そのときにはものすごく怒ってしまった。
幼稚園の年長さんにもなれば、先生が説明することで、ルールはわかる。
もともとサッカーはタマを蹴って自分のゴールに蹴りこめば勝ちという、至極わかりやすいスポーツである。
昨今の流行でサッカーを習っている子もいるので、主軸を経験者にし、均等にチームが分けられた。
本当にお遊び程度なのだが、サッカーになるとどうしたって本気モードになってしまう福助、福助以外ほぼ女子というチーム構成だが、一人で守り一人で攻め上がり、私は園庭の外から明子ねえちゃんのように見ていて「こんなに走れるんだ」と親ばか全開でうっとりしていた。
福助が打つシュートを味方に阻まれるのは仕方ない。野郎なら遠慮しないのだが、強く放って味方の女子には当てたくないようで、どんなシュートチャンスでもコース上に女子がいればあえてドリブルでぎりぎりまでもって行くため、福助は中々ゴールを決められずにいた。複数男子の猛攻。無得点のまま拮抗した試合、いよいよロスタイム。
相手チームに攻められ、もう走れないほど走り続けている福助、最後の相手のチャンスに死力を尽くして全力で守備に駆け戻った。右サイドから大きくクリアして、敵のスローイン。それはどうしたって左サイドにいる女子に渡る。へい!と声を出してパスをもらいに近づいた福助に、信じられない光景が。ゴール前に固まっていた女子のひとりが、自陣に勢いよく蹴りこみ、両手を挙げたのだ。そして、やったーと喜んでいる。
……たぶん、ルールがわからなかったのだ。あるいはやっている最中に、どっちかわからなくなってしまったのかもしれない。そこで無常の笛、オウンゴールに喜ぶ相手チーム。福助、その場にへたりこみ、泣き出した。
そのとき、鬼コーチでもある私は猛烈に腹が立っていた。なぜそんな簡単なことがわからないのか! オウンゴールを蹴りいれて喜んでいるとは何事か!
私が福助なら、きっと彼女に当り散らしたに違いない。だが、福助はただ泣きながら列に並んで礼をした。
その女の子はきょとんとしたまま、不思議そうに福助を見ていた。
帰路、ゆるゆる自転車をこぎながら私は思う。
これがいわゆる健常のおかあさんたちの、障害児に対する感情だ。ノーマライゼーションについて自分の主軸がぶれることなどないと思っていたが、初めて襲われた感情を冷静に考えれば、とても苦しくなった。
「あの子がいるせいで、足がひっぱられる。ルールがわからないなら、はじめから混ざらなければいいのに。一生懸命やっているうちの子がかわいそうだわ。はっきりいって迷惑なのよ。先生だってもうちょっとしっかり指導してくださればいいのに」
これは、健常のお子達に混ざったときに、障害児がぶつけられる言葉のモデルパターンじゃないか。
私は自分を恥じる。
誰がかわいそうなのか。泣いているうちの子か? 本当にかわいそうなのは、わからずにそこにいた彼女じゃないか。大変なのは、その彼女の親や先生じゃないか。どんな迷惑がかかったのだ、たかが試合の一点で。盲目的な子どもへの愛情は美談だが、その近視眼的なエリート意識は醜い。いつだってもちつもたれつだと思っていたのではなかったか。そして当のわが子は、彼女を責めることもせずに、逆に何か大きなものを学んでいるというのに。
彼女は三月生まれのせいもあって、理解力が高いわけではない。
気をつけて保育の別の場面を見ていると、みんなが上手に彼女をフォローしている。あの福助ですら、彼女にわかりやすく説明をしなおしてあげているときがあった。そうやって、福助の力が伸びる。助けることで、人は助けられる。自然に弱い子を助けて、助け合ってクラスが成り立っている。ここには、仲間のミスを責める子はひとりもいないのだ。
六歳の子どもにできて、なぜ大人の自分にできないのだろうと、私は心から恥じた。
わかっているつもりの私ですら、一瞬にして抱いてしまう感情だったことを、覚えておこうと思う。このいやらしく醜いエリート意識を、あえて覚えておけと心に刻む。天に唾したのだ。私は。
障害とか、遅れとか、不得意とか、何も意識しないまま子どもが大きくなっている親たちはゴマンといる。小学校にはお勉強が上手なお子たちと、その親たちが来るのだ。
今後、その母親たちから同じ感情を浴びせられたとしても、その言葉を責めるなと思う。
感情というのは、本能だから仕方ない。子どもの一生懸命を妨害されたら、どんな親でもいらいらするだろう。
しかしその苛立ちは実は子どものためにはならない。子どものために怒っているのではない。
恥ずかしく醜い感情は無知とエゴから来ていて、その無知とエコ゜こそ偏見につながっていく。
一見子どもを守っているかのような姿勢は、子どもに大切なものを与えているつもりで実は偏見を植えつけているという危険をはらんでいるということを、わかってもらうためにこそ、この苦い気持ちを活用するんだ。
偏見は、必ずや自分の首をしめる。
弱者の立場への理解がないと、自分がそこに立ったとき、生きる価値を見失う。
感情は仕方ないにしても、言うべきではないことは押しとどめる理性を。その感情をきちんと分析する力を、持っていたいと思う。私は、大人なのだから。
この事件は、私が今後、考えていくヒントにするのだ。
醜い自分をきちんと懺悔しておきたい。
オウンゴールの彼女には、ごめんなさいと、ありがとうをいいたい。大切なことを、教えてもらった。
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