2006年06月28日

友情(青臭い警報発令)

先日、余命宣告されている友達Aに会いに行った。
その彼女は相変わらず聡明で、気品があった。副作用と脳への転移で、多少、ゆっくりなしゃべり方と、時々ちぐはぐな答えこそあったけれど、そんなことは彼女を貶める条件にはならない。一本もない髪も、今は自力歩行出来なくなったその体も、彼女の闘病の証として、神々しくさえあった。
「また、来るからね。次はビール持ってくる!」
といった私の言葉に嘘はない。私は彼女の姿や言葉の端からたくさんの意味を与えられた気がして、ますます元気をもらって帰ってきた。だから、また会いたいと思った。

ところが、一緒に行ったYは、ここ二日ばかり泣いて暮らしているという。体調を壊したと今日、愚痴めいた電話があった。Yは私とは余り親しくないが、Aとのつきあいは私より古い。
「あんなに綺麗だったAがこんなに変わり果ててしまって……」
と泣き崩れて、病院でもトイレから出てこられなかったといい、そういえば随所で涙をぬぐっていた。
そして、もう二度と見舞う気はないという。やるだけのことはしたから、もうあとは美しい思い出だけでいいのだという。また来ると手を振っていた約束は、果たされることがないままなのか。じゃあなんでそんなことをさらっと言えるのか、私の理解の範疇を越えていた。
こんなに悲しい自分、こんなに優しい自分に酔っているようにしか見えなくて、そういう見方をする意地の悪い私自身がイヤになる。私よりずっと親しかった分、無邪気に辛いのだろうし、Yは優しい人として評判でもある。

実際、私としても、Aの美学を思うに「もう来ないでね」と言われるのではないかと、病室を訪れるまではそう、思っていた。
だが、Aは歓迎してくれて、いつものように次に何をしようかという話で盛り上がり、楽しかった思い出話を中心に、素晴らしい時間を共有したのだ。
見舞いは、ちょっとばかり健康な方が病人に何か与えているつもりになりがちで、その優越感に酔ってしまうこともあるが、実は見舞う方にこそ、とても多くのものが与えられている。見てくれの変貌など、命の尊厳の前でくだらないこだわりだ。病人は、その存在だけで、強く尊い者なのだ。まさに、決して負けられない戦いを、今、戦って戦って、戦い抜いている。もちろん、ワールドカップのサッカーも私を夢中にさせるが、どの選手よりも今のAは輝かしい存在だった。

Aはどっちを望んでいるのだろうか。
Aに聞けばきっと、
「どっちもいいのよ。YはYの、U子ちゃんにはU子ちゃんの、優しさがあるのよ」
と、答えそうな気がする。Aは、そういう人なのだ。
優しさは、ひとつじゃないのよ。と、昔、言っていたのを思い出す。

ただ、もし私が病人だったら、ごてごてとリボンで飾ったような優しさは勘弁して欲しい。だって、今私は全力で戦ってるのに、そばで同情されたら立つ瀬がない。限られた生を、めいっぱい生きようとしているのだから、そこを本気で応援してくれよ。
今ある自分と対等だから友情は成り立つ。共感はあっても同情は要らない。健康ではない分、そこから何か違うものを強引にでも持って行ってくれよ。と、思うだろうなあ、とは、思った。
最後の最後まで、私も闘いたいと思う。
勝てない勝負でも、ロスタイムの一分一秒まで、あきらめない。そう息子に教えているのだ、自分が実践しなくてどうする。そんな闘う女に最も似つかわしくないのが、同情だと思ったのだ。

あ、でも、私は親しい友人にYのようなウェットなタイプはいないのだったと思い返して、ちょっと安心するのだった。


2006年06月28日 23:01
コメント

嫌がられてないと思います。
バンバンお見舞いにお行きなさい。

死んだら、二度と会えません。
火葬場行くまで、実感できないんです。

身内が死に掛かってますが、親戚には来て貰いたくないけど、お友達には来て欲しいです。

Posted by: : 2006年07月02日 23:53

はい。
いってきます。
ありがとうです。

Posted by: ゆう子 : 2006年07月13日 05:02
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