2004年09月15日

10-夫婦の会話

朝ご飯を食べながら、一時間話す。夕食でも同じような感じだから、わが家ではかなり忙しくても一日2時間はみちみち話している。
興が乗れば、朝まで。ということもあるし、何より一年間、夫と過ごした東南アジアでは、日本語が使える人はまわりにとても少なかったから、やるべきこともほかになく、ひたすらずーっと話をしていたように思う。あの時代に比べれば、ほとんどしゃべっているうちに入らない昨今。
会話だけの時間で見れば、私たちの「夫婦時間」は長い。一般家庭の夫婦の会話を仮に一日三十分の会話と、週末に三時間と、わが家の四分の一程度に見積もって……一週間で510分、一ヶ月で2040分、ああ、暗算苦手。まあ、単純に考えて、今12年だから四倍としてもおおよそ、すでに金婚式の夫婦分ぐらいは話していることになると考えればいいのか、そうか。このままこんな調子で会話が進むなら、どちらかが死ぬまでの会話の時間は、輪廻転生をくり返すハリクリシュナーでもない限り間に合わないほどの長さになるだろう。いや、そのうちしゃべらなくなるのかな。
今朝の話題は、韓国のテレビドラマ事情から考察する、文化差であった。
相変わらずおたがいの意見がすりあわない、けれど迎合しないので、主張の落としどころを手探りするような感じで話が進んでいく。別に最終目的があっての話しでも何でもなく、さてどの辺で互いの意見に納得するか。激しい攻防、シュートするも、惜しい。おっとコーナーキックになりました、組立は完璧、だが、はずしたっ。ゴールキックから、おおっ今度は速攻だ、守備はどうだ、みたいな、そんな熱を帯びた内容になる。どんな内容だよ。特に伏すわけではなく、別にまるっきりたいした論旨ではないというところが、キモである。
「なるほど、いいたいことはわかった」。終了の笛、ぴぴーっ。
本日は基本練習からいきなり練習試合になっちゃったようなもんなので、ゴールデンゴール方式ではなく、お互い言いたいことを理解はするけれども、承伏はしかねる。といったところで時間切れであった。
主張の意図はともかく、毎回、「やるなあ」と夫の話のもっていき方と理解力には敬意すら覚える。
敵にまわしたくない人の1人である。
だいたい日に2-3時間しゃべる私たちにとって、さすが、わかってるなあ!!と手に手を取って同意するときもあれば、ひどい考え方だ、間違っている!!と激昂することもあるのだが、こんなことの繰り返しのおかげで、相手の地雷の埋まりどころから、話の展開のパターンから、飛び道具を出すタイミング、その日の気分や今の状態まで、手の内がよーく見えている。私の地雷原でダンスを踊るように煽ることまであり、それでも腹をたてるどころか爆発力のある洒落っけに大笑いさせられるのだから、夫の話術はたいした技量だと素直に感心する。
この日々の鍛錬は(鍛錬かいっ)いざ夫婦間で何か交渉しなければならないときに、喧嘩にならないというメリットがある。しかも目的があっての話し合いの場合、解決がものすごく早い。
あるいは、共通の敵が出てきたときには、あ・うんの呼吸で交渉に当たれるので心強い。お互いの弱点をフォローしあい、任せるべきは任せておけるし、絶妙の呼吸で任される。
この信頼が、夫婦の絆なんだと思う。仮想敵をやっつけることが、ではなく、お互いに握り合っている攻撃力、守備力を含め、熟知している個性を信頼しているってことが、ですよ。
毎日毎日、同じだけテニスを練習していたら、ふたりで市営大会クラスは制覇していたかもしれない。少なくとも、個人の実力以上の力を発揮するペアになっていたはずだと思う。実際、そんな夫婦はたくさんいるだろう。夫婦共通の趣味が尊ばれるのは、相手を知り、信頼して任せることが出来る、それが実生活に生きてくるということなんだなあと思う。親に「夫婦は共通の趣味を持たなければ駄目よ」と言われたが、その真意がこんなところにあったのかとしみじみ思う。
あ、うちは離婚家庭なので、多分母・ヨシコはそんな深遠な部分を理解して忠告していたのではなく、みのもんたの「思いっきりテレビ」レベルだろうが。
母・ヨシコは自分の言いたいことだけを言っていた。そしてそれに反論されるのが駄目だった。反論も受け止めて楽しめたら、もっと夫婦仲はよかっただろうと思う。似たもの夫婦とはいったもので、父も全く同じ反応をしたものだから、2人は会話になっていなかった。
耳に心地いい言葉だけを求めた辺り、精神的に子供だったのだろう。子供を持って、子供を見ていると、実にそう思う。
個性的で主張の激しい娘ですら、ちがう意見はすぐに引っ込めてしまおうとするし、大人の意見に迎合して誉められようとする。ちがう意見と喧嘩しないでそこからいい部分を引っ張り出す訓練と、フリを 短くオチをつけた会話の練習も、日々食卓で行っている鈴木家ではあるが、学校では浮くかもしれないとも、ちょっと思う。
意見を異にする人ともうまくやっていける落としどころを探っていくためには努力が必要だ。人は全部ちがうものなのだから、価値観の相違は当たり前というところから始めなくちゃいけない。
そういう点で、山奥で恵まれて育ちながら田舎暮らしになじめなかった、まわりと違和感があるという夫の過去が、私に幸いしている。スタート地点で「いわなくてもわかる」という発想が、彼には全くないからだ。
そして、夫は会話することでお互いの理解を固めていくために、日々、努力してくれていると思う。忙しくても、お茶を飲みにリビングに来て面白い話をしては、また仕事場に戻っていく。
それを認める以上、私も感情だけでは話せなくなるし、仕事を理由に対話を拒むこともなくなったから、わが家はいつも冷静で、平和解決なのだと思う。
ただ願わくば、もうちょっと愛の言葉だとか、賛美の言葉だとか、そういうのが入ってもいい気はする。それは上級編ではあるが、ギャグのネタとして私を笑うのはもう何度も成功しているゴールなので、次は違和感なく誉める特訓を積んでみることを夫にぜひとも勧めたい。言葉は私の無意識に格納されていく→夫が思う理想の形を壊すまいと頑張る→効果が発揮され、私が何となくビューティフルになっていく。ような気がするのだが、気のせいだろうか。欲張りだろうか。

2004年09月15日 12:21