ほどほどにしよう

  • 投稿日:
今朝、近くの公園をジョギングしていた時にふと考えた。
アディダスマイコーチを使うようになって、速度とスタミナが変わった。それまで漫然と3年間走っていたが、メソッドに従って走るようになったら、1ヶ月半で劇的に変化した。
毎日同じ距離同じ速度で走るのと、日によって速度や距離を変える方式では後者のほうがトレーニング効果が大きい。ということは知ってはいたものの、なかなか心拍数を上げるトレーニングはできなかった。
それを簡単にできてしまうのがこのマイコーチで、それはそれは驚く効果なので、速く走りたい人は使うといいです。
思ったのはそこではなく、つい自分が陥ってしまう罠について。

レースに出るために走っているのではないのに、スタミナがついてタイムがアップすると素直に嬉しいわけです。自分の能力が上がることが嬉しい。
別に誰とも競争していないと言いながら、見えない仮想敵なランナーをぶち抜く快感のようなものがある。それは知らない人かもしれないし、過去の自分だったりする。
苦しいトレーニングの先に、自分の能力向上がある。
ここに落とし穴があるんじゃないかと思ったんですね。
努力するほど、自分より速く走れる人を尊敬するようになる。
苦しいトレーニングをするほど、自分のタイムがよくなるほど、その傾向が高まるのではないか。
苦しい思いをするほど、その業界の上にいる人のすごさがわかるので、尊敬するのは当然といえば当然なんだが、それは逆に下にいる人間、自分より下を見下すことになるのではないか。
と思ってはっとしたわけですね。いまさらこんなことに気づくのもなんですが。

昔から「○○さん尊敬してます!」と大げさに言う人が苦手だった教祖ですが、その理由は、人をやたら尊敬する人は同じくらい別の人を軽蔑しているんじゃないか、と思っていたからです。
上を作ることは下を作ることで、ヒエラルキーとはそういうものなんですが、その強さというか影響力がそれぞれの人にとって違っているんだろうと思うんですね。
で、最近とても真面目に走って、体重を計り、カロリーを計り、節制しているオレなんですが、マヨネーズをどばどばかけている嫁をみると、あーあ、という感じが実際あるんですよ(笑)もっとしぼらんかい!と。
その傾向は自分が努力して絞るほど、その努力に比例して大きくなっているのではないか。

真面目な人ほど、不真面目なものに憤り、法律で律してしまおうと考えるのではないか。
非実在青年などと言って漫画を制限しようとしている人は、ものすごく真面目に何かを努力してきたのかもしれない。真面目でない人間はダメだと考えていることが根本かもしれない。

好きで走っているはずなのに、苦しいトレーニングをすると、そこを肯定するために努力しない人間を見下してしまう。
オレはいい加減な人間だったのに、なにを真人間化してしまったのか。と思って足が止まってしまいました。
だからといって、みんな上も下もなく、「好き」「嫌い」でいいじゃないか。とも言いません。平等がいいとも思えないので。
競争して勝つのも努力も楽しいことだから。
何事も行き過ぎてはいけないなという自分への戒めです。
いいかげんがいい。その加減は実に難しいけど。
とりあえず今夜はいっぱいやろう。ネームの締め切りはひとまず置いておいて(笑)